痛みへ捧げる断章

 かつて砂駱駝は言っていた。「最悪とは、自分の絶叫に気づかないまま終わることだ」と。今また、それを思い出していた。息は、どこまで持つだろうか? しかし、声を漏らすのだ。言葉を、思い出すのだ。私が踏みにじった者たちよ、すまない。本当に、すまない……。Wie existieren wir nun? 今、問うことを赦してくれ。これが私の声、私の叫び。私たちは今、どう在る?

 私は殺した。殺された者たちを。私は餓死させた。餓死した者たちを。私は見殺した。見殺された者たちを。私は汚染している。私は密猟している。私は搾取している。私は貧困に加担し、アパルトヘイトを推し進めている。私は生皮を剥ぎ、絶滅させ、犠牲者を覆い隠し、忘却させ、轢き殺し、兵器を売り、地雷を埋め、爆撃し虐殺している。私は目を逸らしている。私は無視している。いついかなる時でさえ。そして、私は痛みのあまり死ぬことすらしていない。

 日々、何千何万の死。私はこの先、いったいどれだけの死に加担し続けるのだろう。それでもなお死のうとしない私は、何億何十億の骸の上に、どれほど住み良い家を築くつもりだろうか。そのとき私は、自分の良心を、どのように欺くのだろう。…そう、もしもそのときね、良心の奴がまだ自殺してなかったらね、いつもどおり…いつもどおりに、欺くんだよ。

 すべてが連鎖しているというこの知覚は、青空の彼方まで満ち、私はその痛みを、己の肺腑に憶えぬ日はない。メディアが見せる、何処かで起きている惨状に、自らの生存の連鎖と加担とを感じる。そよ風が肌を撫ぜるよりも無垢に。連鎖の全容は何びとにも把捉され得ず、因果を掌握しようとする理性の発作が消尽する瞬間、私は大いなる連鎖のただ中に在るもの、連鎖しているもの、果てや連鎖それ自体として、己を感ずる。そのとき私は、塵状に砕け散っている。把捉し得ない何らかの形で、しかし連鎖し続けているという絶対的感覚のみが、ただ遺される。

 これは否定神学である。自らを塵と捉え、非能のかぎりに沈黙するとき、語り得ぬものが啓示され、自己はそれと合一する…の…だ…から…。

 しかし私たちの神学に、自らを「塵灰にも等しい身」と称したアブラハムの喜悦はない。私たちにもたらされるのはただ、自らの生が、巨大な災厄に溶け込み、あらゆる悲劇を生み出しているという、痛覚なのである。

 およそ350年前、パスカルはこの痛みにたいする先見的な不安を書き留めていた。

「ごく小さい運動も全自然に影響する。大海も一つの石で変動する。そのように、恩恵の世界でも、ごく小さい行為がその結果をすべてのものに及ぼす。ゆえに、すべてのものが重要である。
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 神が、われわれの罪、すなわち、われわれの罪のあらゆる結果と帰結とを、われわれに帰したまわないように。ごく小さいあやまちでも、無慈悲に追及されたら、恐ろしいことになる。」——『パンセ』(1670年)

 私を弾劾するのは、私自らの痛覚である。意識には苦渋と欺瞞と挫折とが満ち溢れてゆく。誰ともない無数の人影に、いや、人影ですらない影の影に、狼狽し、謝罪し続ける。しかし、それが不倖なのではない。
 私たちの不倖とは、塵状に砕け散りながら、災厄と共に在りながら、それでもまだ生きていることを肯定する倫理が、この世の何処にも無いことだ。
 私はこの不在を、永久に続く夜だとは思わない。来るべき倫理を求め彷徨う。この塵の痛みが、あらゆるものたちの存在へ、そして世界の恢復へと架橋されるとき、私は現実を生きるということを、もはや地獄とは思わないだろう。

 今夜私が書いたことも、ひとつの叫びに過ぎない。暗い草原で散り積もる土砂に埋もれた、一個人の喘ぎに過ぎない。それでもそれは、ひとつの変奏を成す。私はそう信じる。微かな声の響きが、やがて無数のヴァリエイションとなり、いつかその主題を伝えることを、願ってやまない。けれどその願いすらも、ひとつの壮大なペテンだろうか? まだ、答える時ではないさ。