ヒュドラの毒矢

 僕が染みついてしまった悪い口癖のように、塵について君に話し続けることを、君は辟易するだろうか。笑ってくれよ、ハニー。これは冗談でもあるんだ、ジョニー。一世一代の大法螺吹きなんだ、ボーイ。俺の懺悔さ、神よ。I want you to listen to me.

 つまり、元来すべては塵である、しかし現在、それがあからさまに剥き出されつつある。砂の城はいまや砂にしか見えなくなった。それが、あらゆる光景で進行している。私が言いたいのはこのことだ。

 すべてが塵であること。風とともに崩れ、いや、永劫に崩れ続け、決して固有の領土をなさず、また消滅もせず、永劫に散らばり続けること。それはかつて、ひとつの神秘だった。2500年前にソフォクレスが書き示した、我らが『オイディプス』も、それを真摯に伝えるものだった。

 この真理には、不条理や無常、あるいは虚無といった、様々な呼び名がある。また、かつてオットーはそれらの経験を総称して「神聖なるもの」と呼んだ。けれども、やはり私は、自分自身の実感を映し出す、塵という語を用いたい。私は、文学者でも宗教家でも哲学者でもなければ、ああ詩人ですらなく、ここで土砂に埋もれ呼吸する或る一人として、この真理とやらを噛み締めているのだから。

 かつてそうした「真理たち」は畏怖とともに聖別され、一種の秘法として——ヒュドラの毒矢のごとく——慎重に扱われてきた。真理を求める者たちは、それが何者であれ、長い修養の階梯に身を殉じた後、聖域への旅に出た。これは、真理の使徒たちが無防備なまま毒矢に触れて即死するのを防ぐ仕組みであり、また、毒矢が社会に氾濫してアノミーをもたらさぬよう、それを護り隠す狡智でもあった。

 そして毒矢を、つまりは不条理や無常、虚無といったものを見出した者たちは帰郷し、己が捉えた真実について表現する。それらは、秘められた神学の体系へ吸収されてゆきもすれば、円形劇場にひしめく観客たちの前で上演されることもあった。人々は美に昇華された真理を愛し、惜しみない喝采を送った。ギリシアで完成した悲劇における真理とは、まことに社会的現実への解毒薬でもあった。毒矢は、ひとを活かすために用いることもできる。かつてあのヘラクレスがそうしたように。

 しかし、真理の門はいまや打ち毀され、ヒュドラの毒はこの地上に横溢している。見よ、我らの時代の文学を。カフカメルヴィルベケットペソアカミュアルトーブランショ……いずれも、不毛さ、不可解さ、無意味さ、不可能さを、剥き出された素朴な事実として描出し、人間がそのなかでいかにして生き得るか、切実に試行しているではないか。

 かつて神秘だったものは、今日では徹底的に俗化され、虚無も不条理も、巷に溢れた日常的なもの、単なる事実に成り果てた。そのヴェールは剥奪され、そして剥き出されたのは、かつて神秘だったものだけではない。毛皮を剥がれた獣のように、我らの神経もまた、ここに剥き出されている。私たちは、深淵を覗く意志も智慧も活力も、どれかひとつでも育むより先に、破壊的な知に曝される。一人びとりが、少年兵である。

 人間の文明とはいかなるものだったか。今一度考えよう。私にはそれが、真理に対して人々が望み得た二つの関係性によって、相補的に織り成されてきたもののように思えてならない。真理すなわち「塵であること」—私はその状況そのものこそが「神」であると直感する。もし、何かを神と呼ぶのなら。ウィトゲンシュタインが詩った「語りえぬもの」とは、それに他ならない—を征服することは、人類のみならず、いかなる存在の器をも超えていよう。ゆえに、ひとは古来それを無理に否認せず暴露もせず、ただ神秘とした。そしてそれは探求者によって人々の精神に漏洩された。触媒としての芸術や、あるいは宗教的啓示を通じて。人間たちが築き上げてゆく、一見強固な、それでいて皮膜に映る幻夢のような、社会的現実なるもの。そこで生を送る者たちに漏れ伝えられる絶対的な真理の知覚とは、個人と共同体とにとって、ある種の安らぎを与えるものではなかったか。絶対的現実と社会的現実との乖離を調停するもの、それこそが人間の文明だった。人間の姿だった。

 では今、何が起こっているのか。あるいは、何が既に起きたのか。

 文明は、もはや人間の文明ではないのだ。世界からは神秘も虚飾も消え失せ、絶対的現実である塵の知覚が剥き出された。しかしそれだけではない。私たちに夢を、幻を見せていたはずの社会的現実は、いまや塵の形をしているのだ。

 ああ僕はそう思うのだ。