瓶詰め航海日誌

 今朝の冷え込みは慢性睡眠不足の急速眼球運動野郎である俺の体に滲みた。他者にも滲みただろうが、俺は、俺にはなおのほか滲みているように感じた。そして俺は、俺のこんなくだらない戯言を、一刻も早く止める必要があった。だからいつもはその暗い大窓をアーケードから見上げるだけで通り過ぎていた、ある喫茶室の扉に手をかけたのだった。そこにはかつてわたしたちの同胞が暗く息詰まる船底に貨物と一緒に押し込まれ、移民として海を渡っていった遠い港町の名が刻まれていた。黄金色のノブを後ろ手に閉めると、やわらかな暖気に包まれる。真鍮製のこの円柱はボイラーだろうか・・・・いや、ガラスの半球にいくつも計器の覆われたこれは・・・クロノメーター・・・・甲板に出なくとも、密室の中で、船の行方を失わぬように・・・・・。鈍色のコートを脱いで注文したモーニングを待つ間、室内の調度をぎょろぎょろと眺め回す。船室を空想しているのだろうか、飴色のランプに、腐朽した錨の掛け物が懐かしい。私は昔、船長と呼ばれていた。深緑色のスエード張りの木椅子に挟まれた幅広の木卓は、カード遊びに耽る船員たちを幻視させる。黒塗りの梁を巡らした白天井は鯨に呑まれたヨナの運命を暗喩している。波打つ漆喰で塗り固められた・・・漆喰の波が静止したとも言える白壁には、二頭立ての荷馬車を駆る十八世紀のジプシー一家が、黒檀の木彫となって掛かっている。まるで魔法によって一瞬のうちにこの姿へ変えられたかのように。わたしが持ち込んだ外の空気は、酒樽じみた室内にかすかな波紋を立てただけで、やがて静穏に帰ってゆく。水底でかき立てられた澱みがまた泥土に委すように。奥の壁一面に張られた鏡に私の破片が増殖している。運ばれてきた熱い珈琲をうやうやしく捧げもつとき、白日におけるREM状態はすでに始まっていた。


……大学を出ると、空は翳っている。石階段には学生たちが彫像のごとく配置されている。リンクを渡り、ショッテントーアの駅を過ぎて、バンク・オーストリアの向かいの小路を斜に通り抜ける。ベートーヴェンの家が近いそうだが行ったことはない。彼はこの街で死んだ。BILLAの前には物乞いの老人が座り込んでいるが、後から何かを渡しに戻っても、もうそこに彼の姿はない。誰もがschwarzfahrenできるから、誰もがどこかへ移動してゆく。ゆえにポケットに硬貨を絶やすな。この岐路を右に折れてまっすぐゆけば王宮前広場に突き当たるが、その手前で、三叉路の角にツェントラルが扉を開けて待っている。
果てしない街路を歩き回るようフライング・ダッチマンじみた宿命を負わされた近代人にとって、カフェはなくてはならない場所だ。ほんの一時であるにせよ、彼らは息を吹きかえす。国民でも群衆でもない、正真正銘の一個人として。まるで人体と臓器のように、それらは都市と結びつき、それなくして我々の生命は維持されない。そうだったな、パトリック?

バターのしみたトースト3切れ、薄切りハム2枚、目玉焼き、フレンチドレッシングのかかったサラダ、オレンジ1切れ

…では、この国の喫茶室は? それは目立つ角ではなく、何かと何かに挟まるように、疲れた街に潜んでいる。無数の足ゆき交う往来に面しながら、飽くまでそこから異化された密室であろうとする。そのなかで人は、一個人ですらもなく、正真正銘の無名者であることができる。自己紹介を免除された無名者たちは、外をゆく資格を持たない。喫茶室は彼らにとっての船、それも永遠に港を出ない船である。出航と同時に時間の止まったメイデン・ヴォヤージュ。そのインテリアが無意識に船室を模倣するのは必然と言えよう。なかでも肝要なのは、外界に流れる景色を縁取る窓、つまりは舷窓である。室内に満ちるエーテル感覚、外と内とがくっきり分離したかのような、あの甘く冷たい錯覚を惹き起こすのは、この硝子窓だ。ただし通りに面した窓を必要とするからといって、扉を開け放ってはならない。瓶詰めの安息を生み出すのは、透明レンズの密封なのだから。ここから演繹するに、理想の喫茶室とは出入口のない喫茶室である。往き交う他者と静止した自己。喧噪の彼岸と寂たる此岸。その瓶の中でふと、硝子の向こうの世界こそ瓶詰めなのではないかと考える。平生、塵埃の往来で、実社会のどこかで、仮面と仮面のあいだで、瓶に詰められたような心地で生きている人にとって、子どもだましの倒錯に惑わされたこの束の間の永遠が、どれほど有難いことか。真夜中過ぎてなお明かりの絶えぬカフェと異なって、我が国固有の喫茶室が日暮れて早々店仕舞いを始めるのも、人影まばらな往来がもはや対比の用を成さぬからだろう。無名者たちを乗せた瓶詰めの船は、彼らがどれだけ長く留まろうとも、何処にもゆき着くことはない。「それが錯覚だなんて、分かってるさ」店を出た彼らは呟く。「…でも…ひょっとして……」疑問を許さぬ盤石の現実に向けられる、この一服の不信こそ、瓶詰めの海を漂う彼らが求めた救命具だったのではないか……


 ツェントラルやハヴェルカのようなカフェが永劫生まれて来ぬこの国を日頃呪わしげにうろつき回っている俺も、その世界にはその世界に必要なものが生まれるという単純な原理を、こうして思い知らされるのだった。ぶ厚い陶器の中の珈琲はいつまでも冷めず、濃くて旨い。

 店を出ても朝はまだ早く、俺はいくつもの面白いものを見かけた。