止まらない扇風機

 殺風景な部屋で目を覚ます。眠っている間中、扇風機が回っていたらしい。
 足の指で電源スイッチを押す。
 しかしプロペラは止まらない。
 怒りまかせに白いプラグを引き抜くも、それでもジャイロは回り続ける。
 私は調査し、そして事実を知った。

 いち扇風機の回転/停止という、些末で個人的な事象すら、人口統計的な無数のバロメーターや、変動為替相場、気象、国際情勢、所有者の身分情報……果てや、太陽系における諸惑星の配置が十字だの直列だの、呆れるばかりに膨大な指標が絶えず絡み合って出力され、そのなかにあって、回転を止めようとする一個人の意志など、どこにも存在意義が無いのだった。

 私は考えるのをやめて扇風機の風を浴びることにした。
 慣れれば楽に違いない、そう自分に言い聞かせ…。

 不意にプロペラが停止した。

                          ———五年前の夢日記

痛みへ捧げる断章

 かつて砂駱駝は言っていた。「最悪とは、自分の絶叫に気づかないまま終わることだ」と。今また、それを思い出していた。息は、どこまで持つだろうか? しかし、声を漏らすのだ。言葉を、思い出すのだ。私が踏みにじった者たちよ、すまない。本当に、すまない……。Wie existieren wir nun? 今、問うことを赦してくれ。これが私の声、私の叫び。私たちは今、どう在る?

 私は殺した。殺された者たちを。私は餓死させた。餓死した者たちを。私は見殺した。見殺された者たちを。私は汚染している。私は密猟している。私は搾取している。私は貧困に加担し、アパルトヘイトを推し進めている。私は生皮を剥ぎ、絶滅させ、犠牲者を覆い隠し、忘却させ、轢き殺し、兵器を売り、地雷を埋め、爆撃し虐殺している。私は目を逸らしている。私は無視している。いついかなる時でさえ。そして、私は痛みのあまり死ぬことすらしていない。

 日々、何千何万の死。私はこの先、いったいどれだけの死に加担し続けるのだろう。それでもなお死のうとしない私は、何億何十億の骸の上に、どれほど住み良い家を築くつもりだろうか。そのとき私は、自分の良心を、どのように欺くのだろう。…そう、もしもそのときね、良心の奴がまだ自殺してなかったらね、いつもどおり…いつもどおりに、欺くんだよ。

 すべてが連鎖しているというこの知覚は、青空の彼方まで満ち、私はその痛みを、己の肺腑に憶えぬ日はない。メディアが見せる、何処かで起きている惨状に、自らの生存の連鎖と加担とを感じる。そよ風が肌を撫ぜるよりも無垢に。連鎖の全容は何びとにも把捉され得ず、因果を掌握しようとする理性の発作が消尽する瞬間、私は大いなる連鎖のただ中に在るもの、連鎖しているもの、果てや連鎖それ自体として、己を感ずる。そのとき私は、塵状に砕け散っている。把捉し得ない何らかの形で、しかし連鎖し続けているという絶対的感覚のみが、ただ遺される。

 これは否定神学である。自らを塵と捉え、非能のかぎりに沈黙するとき、語り得ぬものが啓示され、自己はそれと合一する…の…だ…から…。

 しかし私たちの神学に、自らを「塵灰にも等しい身」と称したアブラハムの喜悦はない。私たちにもたらされるのはただ、自らの生が、巨大な災厄に溶け込み、あらゆる悲劇を生み出しているという、痛覚なのである。

 およそ350年前、パスカルはこの痛みにたいする先見的な不安を書き留めていた。

「ごく小さい運動も全自然に影響する。大海も一つの石で変動する。そのように、恩恵の世界でも、ごく小さい行為がその結果をすべてのものに及ぼす。ゆえに、すべてのものが重要である。
 ———
 神が、われわれの罪、すなわち、われわれの罪のあらゆる結果と帰結とを、われわれに帰したまわないように。ごく小さいあやまちでも、無慈悲に追及されたら、恐ろしいことになる。」——『パンセ』(1670年)

 私を弾劾するのは、私自らの痛覚である。意識には苦渋と欺瞞と挫折とが満ち溢れてゆく。誰ともない無数の人影に、いや、人影ですらない影の影に、狼狽し、謝罪し続ける。しかし、それが不倖なのではない。
 私たちの不倖とは、塵状に砕け散りながら、災厄と共に在りながら、それでもまだ生きていることを肯定する倫理が、この世の何処にも無いことだ。
 私はこの不在を、永久に続く夜だとは思わない。来るべき倫理を求め彷徨う。この塵の痛みが、あらゆるものたちの存在へ、そして世界の恢復へと架橋されるとき、私は現実を生きるということを、もはや地獄とは思わないだろう。

 今夜私が書いたことも、ひとつの叫びに過ぎない。暗い草原で散り積もる土砂に埋もれた、一個人の喘ぎに過ぎない。それでもそれは、ひとつの変奏を成す。私はそう信じる。微かな声の響きが、やがて無数のヴァリエイションとなり、いつかその主題を伝えることを、願ってやまない。けれどその願いすらも、ひとつの壮大なペテンだろうか? まだ、答える時ではないさ。

ヒュドラの毒矢

 僕が染みついてしまった悪い口癖のように、塵について君に話し続けることを、君は辟易するだろうか。笑ってくれよ、ハニー。これは冗談でもあるんだ、ジョニー。一世一代の大法螺吹きなんだ、ボーイ。俺の懺悔さ、神よ。I want you to listen to me.

 つまり、元来すべては塵である、しかし現在、それがあからさまに剥き出されつつある。砂の城はいまや砂にしか見えなくなった。それが、あらゆる光景で進行している。私が言いたいのはこのことだ。

 すべてが塵であること。風とともに崩れ、いや、永劫に崩れ続け、決して固有の領土をなさず、また消滅もせず、永劫に散らばり続けること。それはかつて、ひとつの神秘だった。2500年前にソフォクレスが書き示した、我らが『オイディプス』も、それを真摯に伝えるものだった。

 この真理には、不条理や無常、あるいは虚無といった、様々な呼び名がある。また、かつてオットーはそれらの経験を総称して「神聖なるもの」と呼んだ。けれども、やはり私は、自分自身の実感を映し出す、塵という語を用いたい。私は、文学者でも宗教家でも哲学者でもなければ、ああ詩人ですらなく、ここで土砂に埋もれ呼吸する或る一人として、この真理とやらを噛み締めているのだから。

 かつてそうした「真理たち」は畏怖とともに聖別され、一種の秘法として——ヒュドラの毒矢のごとく——慎重に扱われてきた。真理を求める者たちは、それが何者であれ、長い修養の階梯に身を殉じた後、聖域への旅に出た。これは、真理の使徒たちが無防備なまま毒矢に触れて即死するのを防ぐ仕組みであり、また、毒矢が社会に氾濫してアノミーをもたらさぬよう、それを護り隠す狡智でもあった。

 そして毒矢を、つまりは不条理や無常、虚無といったものを見出した者たちは帰郷し、己が捉えた真実について表現する。それらは、秘められた神学の体系へ吸収されてゆきもすれば、円形劇場にひしめく観客たちの前で上演されることもあった。人々は美に昇華された真理を愛し、惜しみない喝采を送った。ギリシアで完成した悲劇における真理とは、まことに社会的現実への解毒薬でもあった。毒矢は、ひとを活かすために用いることもできる。かつてあのヘラクレスがそうしたように。

 しかし、真理の門はいまや打ち毀され、ヒュドラの毒はこの地上に横溢している。見よ、我らの時代の文学を。カフカメルヴィルベケットペソアカミュアルトーブランショ……いずれも、不毛さ、不可解さ、無意味さ、不可能さを、剥き出された素朴な事実として描出し、人間がそのなかでいかにして生き得るか、切実に試行しているではないか。

 かつて神秘だったものは、今日では徹底的に俗化され、虚無も不条理も、巷に溢れた日常的なもの、単なる事実に成り果てた。そのヴェールは剥奪され、そして剥き出されたのは、かつて神秘だったものだけではない。毛皮を剥がれた獣のように、我らの神経もまた、ここに剥き出されている。私たちは、深淵を覗く意志も智慧も活力も、どれかひとつでも育むより先に、破壊的な知に曝される。一人びとりが、少年兵である。

 人間の文明とはいかなるものだったか。今一度考えよう。私にはそれが、真理に対して人々が望み得た二つの関係性によって、相補的に織り成されてきたもののように思えてならない。真理すなわち「塵であること」—私はその状況そのものこそが「神」であると直感する。もし、何かを神と呼ぶのなら。ウィトゲンシュタインが詩った「語りえぬもの」とは、それに他ならない—を征服することは、人類のみならず、いかなる存在の器をも超えていよう。ゆえに、ひとは古来それを無理に否認せず暴露もせず、ただ神秘とした。そしてそれは探求者によって人々の精神に漏洩された。触媒としての芸術や、あるいは宗教的啓示を通じて。人間たちが築き上げてゆく、一見強固な、それでいて皮膜に映る幻夢のような、社会的現実なるもの。そこで生を送る者たちに漏れ伝えられる絶対的な真理の知覚とは、個人と共同体とにとって、ある種の安らぎを与えるものではなかったか。絶対的現実と社会的現実との乖離を調停するもの、それこそが人間の文明だった。人間の姿だった。

 では今、何が起こっているのか。あるいは、何が既に起きたのか。

 文明は、もはや人間の文明ではないのだ。世界からは神秘も虚飾も消え失せ、絶対的現実である塵の知覚が剥き出された。しかしそれだけではない。私たちに夢を、幻を見せていたはずの社会的現実は、いまや塵の形をしているのだ。

 ああ僕はそう思うのだ。